| 「琵琶湖疏水を歩く」 | |||||
南禅寺の境内にはレンガ造りの水路閣がありますが、境内から三条通方面への通り道がトンネルとなっています。「ねじりまんぽ」と呼ばれる奇妙な空間です。琵琶湖からの水を引いて発電した蹴上発電所がその通りの向こう、三条通に面しています。
|
|||||
| 「暮らしに息づく伝統衣装――白川女(しらかわめ)」 | |||||
| 東山山麓の北白川は、清らかな水とともに肥沃な地で、草花が良く育ち、花の名所として平安時代から和歌にも詠われています。その花を御所に献上する時に、北白川の娘たちは質素で清潔な身なりで参上したといいます。それが白川女のスタイルの始まりで、その後、「花いりまへんか〜」とかけ声を上げながら、京の町を売り歩いたといいます。 紺もめんの小袖に御所染めの細帯を締めて、紺絣(こんがすり)の三巾(みはば)前掛けと着物の裾を一緒に左脇にからげて、肩付きのたすきをゆるやかにかけます。手ぬぐいを襟にかけ、また頭は姉さんかぶりにして、その上に花を入れた箕を載せています。風雅なその衣装は、保存会の方々によって、時代祭の中世婦人列で見られ、また京の町を歩く花売りの伝統は今も続いています。 |
|||||
| 街道を訪ねて―1 「海の幸・山の幸を運んだ二つの街道」 |
|||||
日本海に面する小浜の港から京の台所・錦市場までつながる食材の道がありました。それが鯖街道と呼ばれた若狭街道です。若狭湾でとれた鯖は小浜に陸揚げされ、そこでさっと塩を振られます。そこから川舟で北川を遡り、次に大八車(だいはちぐるま)に積まれ、さらには担ぎ手によって朽木(くつき)の市場に至ります。ここで京からの運び人が荷を受けて、安曇(あど)川沿いに京を目指してひた走ります。花折峠を越えて途中の集落を抜け、大原、八瀬と高野川に沿って、出町の大原口へ向かいます。 こうして運ばれた鯖は、塩がほどよく利いて食べ頃になっていました。これが鯖街道といわれたゆえんですが、この本街道の他に険しい山越えをするいくつかの支道がありました。また運ばれたのは鯖だけでなく、ハモ、グジ(甘鯛)、カレイなどで、今日でも若狭の一塩ものは美味いといわれています。
|
|||||
《 鞍馬街道 》
市原、二ノ瀬と集落を過ぎるうち、周囲はすでに山間になっています。貴船神社の鳥居を見て、鞍馬川に沿って行くと、べんがら格子、うだつの上がった落ち着いた家並みの鞍馬の里です。鞍馬を過ぎると杉木立の中を急カーブの道が登り詰めて、花脊(はなせ)峠へ至り、峠を越えて丹波、そして若狭へと続いています。若狭の海の幸、丹波山地の山の幸が集められ、行き交った大切な街道でもありました。
|
|||||
| 「暮らしに息づく伝統衣装――小原女(おはらめ)」 | |||||
八瀬(やせ)は比叡山の山麓にある集落で、昔から御所とのゆかりが深く、独特のしきたりや風習が根付いている雅な土地柄です。かつては北の大原とともに薪炭(しんたん)の生産が主な産業で、大原の大原女と同じように、その炭や薪を頭に乗せて京の町へ行商にいったのが八瀬の小原女でした。その様子が江戸時代の書物に、「八瀬の黒木売(くろきうり)、大原の柴うり」として描かれています。小原女の衣装は、前掛けが二巾半で、正装の時は「きりくずし」の着物に御所染めの帯を締めます。頭には、古今の名歌や優雅な図案を刺繍して、四隅に絹糸の房を付けた「縫いのてぬぐい」をかぶります。小原女は手甲や細帯、前掛けの紐などの小物にさりげないおしゃれをしたといわれています。これも京都御所とのつながりを偲ばせる優雅さを表しているのかもしれません。 |
|||||
| 街道を訪ねて―2 「近江への山越えの道」 |
|||||
河原町今出川辺りから東へ向かい、北白川の里を通って大津市山中町へ、田の谷峠を越えて大津市南滋賀町へ入る道を志賀越、また山中越、白川越ともいいました。古くは清荒神(きよしこうじん)のある荒神口(こうじんぐち)から比叡山東麓の坂本に至る重要なルートであったようです。 この街道のことは『太平記』にも記され、また織田信長も利用したと伝えるように軍事的にも重要で、中世には京と近江を結ぶ最短ルートとしてよく利用されていました。今出川通りと旧道が交差する辺りに鎮座している数体の石仏は、当時の街道の賑わいを知っていることでしょう。
|
|||||
《 雲母坂(きららざか)》
雲母坂は別名勅使坂(ちょくしざか)とも呼ばれていましたが、それは朝廷からの使者がこのルートを通ったからです。また、雲母坂というのは、この辺りに雲母(うんも)をふくんだ土砂があるからとも、京から眺めると雲がわくように見えるからともいいます。比叡山の僧兵たちが神輿を担ぎ、強訴に及んだ道でもあり、京から比叡山への最短路でした。 修学院近くの名物雲母漬を商う老舗のたたずまいには、往時の面影が偲ばれます。
|
|||||
| 「南北に国際交流の場」 | |||||
蹴上の京都市国際交流会館は、京都が町ぐるみで世界中の都市や国々と仲良くするための交流の場として、1989年に建設されました。ここでは京都市国際交流協会が京都における国際交流のインフォメーションセンターとして、役に立つ情報の収集・提供を行うほか、国際交流を進めるための事業やイベントの実施、ボランティア制度の運営、各交流団体との連携をはかるなどさまざまな取り組みが行われています。 また、宝ヶ池にある国立京都国際会館では、東洋一ともいわれる大会議室をはじめ7つの会議室が、学術会議などのさまざまな国際的な会議や大会に用いられています。 |
|||||
| 「霊峰比叡を仰ぐのどかな山里―八瀬(やせ)―」 | |||||
中世には八瀬の村人は、八瀬童子と称して朝廷の駕輿丁(かよちょう)をつとめ、課役(かやく)免除の特権を得ていました。それは南北朝時代に後醍醐(ごだいご)天皇を護衛したということから、免租になったと伝えられています。こうしたところから、いまなお八瀬は御所との深いつながりを保ち、赦免地踊(しゃめんちおどり)や小原女(おはらめ)、八瀬童子と独特のしきたりや優雅な風情を人々や家並みの表情にたたえているように感じられます。 |
|||||
| 「暮らしに息づく伝統衣装――大原女(おはらめ)」 | |||||
平安時代にはすでに和歌にも詠まれているように、「炭竈(すみがま)の里」として大原は薪炭(しんたん)の産地でした。この薪炭を頭に乗せて、京の都へ行商したのが大原女と呼ばれることになったといいます。その独特の衣装は、時代とともに変わってきましたが、寂光院に隠れ棲んだ建礼門院(けんれいもんいん)に仕えた阿波内侍(あわのないし)らの女官が、柴刈りに行くときの装いを元にしていると伝えられています。衣装には由緒ある所へ出入りする時の正装と、一般に行商するときの略装があるといいます。略装の時は紺の着物に細帯を締め、二巾半(ふたはばはん)の前掛けをして坊主からげでたすき掛け、白い手ぬぐいは吹き流しにかけます。昔は約60キロの柴を頭に乗せて売りに行ったといいます。現在、電気やガスの普及でこうした柴を頭に乗せた行商は無くなりましたが、大原女の姿は大原名産の紫葉漬(しばづけ)のお店などで見られます。 |
|||||
| 火の祭り・水の祭り | |||||
|
《洛北の夜空を焦がす炎の祭典》
10月22日夜、山里の鞍馬(くらま)には詰めかけた観客と里の人々の熱気が町中を渦巻いています。夕刻の「神事にまいらっしゃれ」の声を合図にかがり火がともされ、8時頃になると仁王門の石段に大松明がひしめき集まります。「サイレイ、サイリョウ」のかけ声が祭装束の男たちから発せられ、炎の海と化し、祭はクライマックスへ。この鞍馬の火祭りは鞍馬寺の山内にある由岐(ゆき)神社祭礼で、御所からの祭神を迎える時にかがり火を焚いたことに始まるといわれています。
8月15日に花脊八桝(はなせやます)、23日には久多、24日には広河原(写真、勇壮なラストシーン)で松上げという幻想的な火の祭りが行われます。大松明に向かって火のついた小さな松明が投げ上げられ、幾筋もの火の軌道が闇に描かれます。この松上げは、丹波から若狭の一部を含む広い地域に伝えられています。盆行事の送り火とも、愛宕山(あたごさん)信仰の行事ともいわれています。
|
|||||
|
《厳かな水への祈りと願い》
7月7日貴船神社では、水神に水の恩恵を感謝して水祭が行われ、舞楽や式包丁(しきぼうちょう)が奉納されます。貴船神社は平安京の水源である鴨川源流を守る神が祀られ、山中には雨ごいの滝もあるといいます。奥宮境内には伝説の船形石、社殿下には水神の龍を封じ込めた穴があると伝えられます。まさに木生根と書かれたように、貴船の地はいつでも水が滴るような、みずみずしい風景に包まれています。この地域は林野庁から「水源の森百選」の一つに認定されています。
|
|||||