「琵琶湖疏水を歩く」
 
インクライン
 琵琶湖疏水は第一、第二とも琵琶湖からトンネルを潜って、山科を通り蹴上に至っています。蹴上発電所取水口近くに建つ設計者・田辺朔郎(さくろう)博士像から、動物園前の船溜り(ふなだまり)へと、インクラインのゆるやかな斜面をレールに沿って下ります。インクラインはレールの上を走る台車に船を乗せて、船運のために坂を上り下りさせたものです。今も軌道が残り台車と船が展示され、往時を偲ぶことができます。
 南禅寺の境内にはレンガ造りの水路閣がありますが、境内から三条通方面への通り道がトンネルとなっています。「ねじりまんぽ」と呼ばれる奇妙な空間です。琵琶湖からの水を引いて発電した蹴上発電所がその通りの向こう、三条通に面しています。
水路閣
 インクラインを下りきったところが、船溜りです。現在は、整備され噴水も上がり、琵琶湖疏水記念館とさわやかな調和を見せています。そこから疏水運河は京都市美術館京都国立近代美術館などの建物の影を水面に映してゆるやかに流れ、夷川の発電所へと向かいます。
 「暮らしに息づく伝統衣装――白川女(しらかわめ)
   東山山麓の北白川は、清らかな水とともに肥沃な地で、草花が良く育ち、花の名所として平安時代から和歌にも詠われています。その花を御所に献上する時に、北白川の娘たちは質素で清潔な身なりで参上したといいます。それが白川女のスタイルの始まりで、その後、「花いりまへんか〜」とかけ声を上げながら、京の町を売り歩いたといいます。
 紺もめんの小袖に御所染めの細帯を締めて、紺絣(こんがすり)の三巾(みはば)前掛けと着物の裾を一緒に左脇にからげて、肩付きのたすきをゆるやかにかけます。手ぬぐいを襟にかけ、また頭は姉さんかぶりにして、その上に花を入れた箕を載せています。風雅なその衣装は、保存会の方々によって、時代祭の中世婦人列で見られ、また京の町を歩く花売りの伝統は今も続いています。
 街道を訪ねて―1
海の幸・山の幸を運んだ二つの街道」
 
 
若狭街道
 日本海に面する小浜の港から京の台所・錦市場までつながる食材の道がありました。それが鯖街道と呼ばれた若狭街道です。若狭湾でとれた鯖は小浜に陸揚げされ、そこでさっと塩を振られます。そこから川舟で北川を遡り、次に大八車(だいはちぐるま)に積まれ、さらには担ぎ手によって朽木(くつき)の市場に至ります。ここで京からの運び人が荷を受けて、安曇(あど)川沿いに京を目指してひた走ります。花折峠を越えて途中の集落を抜け、大原八瀬と高野川に沿って、出町の大原口へ向かいます。
 こうして運ばれた鯖は、塩がほどよく利いて食べ頃になっていました。これが鯖街道といわれたゆえんですが、この本街道の他に険しい山越えをするいくつかの支道がありました。また運ばれたのは鯖だけでなく、ハモ、グジ(甘鯛)、カレイなどで、今日でも若狭の一塩ものは美味いといわれています。
若狭街道(山端付近)
 
  《 鞍馬街道 》
京菓子資料館(館内展示)
 
 鞍馬寺の門前町として栄えた鞍馬の里はもう一つ、街道の宿場町という顔を持っていました。鞍馬口から始まるこの街道は賀茂川を東へ渡り、下鴨を北へと進みます。深泥ヶ池の側を通り、岩倉を抜けて鞍馬へと続きます。また、西賀茂から原峠を越えるルートもありましたが、二軒茶屋(にけんぢゃや)で合流していました。
 市原、二ノ瀬と集落を過ぎるうち、周囲はすでに山間になっています。貴船神社の鳥居を見て、鞍馬川に沿って行くと、べんがら格子、うだつの上がった落ち着いた家並みの鞍馬の里です。鞍馬を過ぎると杉木立の中を急カーブの道が登り詰めて、花脊(はなせ)峠へ至り、峠を越えて丹波、そして若狭へと続いています。若狭の海の幸、丹波山地の山の幸が集められ、行き交った大切な街道でもありました。
鞍馬の町並み


 「暮らしに息づく伝統衣装――小原女(おはらめ)」
    八瀬(やせ)は比叡山の山麓にある集落で、昔から御所とのゆかりが深く、独特のしきたりや風習が根付いている雅な土地柄です。かつては北の大原とともに薪炭(しんたん)の生産が主な産業で、大原大原女と同じように、その炭や薪を頭に乗せて京の町へ行商にいったのが八瀬の小原女でした。その様子が江戸時代の書物に、「八瀬の黒木売(くろきうり)、大原の柴うり」として描かれています。
 小原女の衣装は、前掛けが二巾半で、正装の時は「きりくずし」の着物に御所染めの帯を締めます。頭には、古今の名歌や優雅な図案を刺繍して、四隅に絹糸の房を付けた「縫いのてぬぐい」をかぶります。小原女は手甲や細帯、前掛けの紐などの小物にさりげないおしゃれをしたといわれています。これも京都御所とのつながりを偲ばせる優雅さを表しているのかもしれません。
 街道を訪ねて―2
近江への山越えの道」
 
 
《 志賀越 》
 河原町今出川辺りから東へ向かい、北白川の里を通って大津市山中町へ、田の谷峠を越えて大津市南滋賀町へ入る道を志賀越、また山中越、白川越ともいいました。古くは清荒神(きよしこうじん)のある荒神口(こうじんぐち)から比叡山東麓の坂本に至る重要なルートであったようです。
 この街道のことは『太平記』にも記され、また織田信長も利用したと伝えるように軍事的にも重要で、中世には京と近江を結ぶ最短ルートとしてよく利用されていました。今出川通りと旧道が交差する辺りに鎮座している数体の石仏は、当時の街道の賑わいを知っていることでしょう。
北白川石仏(大日如来)
 
  雲母坂(きららざか)
  江戸時代の書物に「比叡山へは今出川口を出、田中村へ懸かり一乗寺(いちじょうじ)村を通り雲母坂を上がる。これを雲母越という」とあります。このように雲母坂は一乗寺を通り、修学院の鷺森(さぎのもり)の北辺りから雲母坂を音羽(おとわ)川に沿って登り、四明ヶ嶽(しめいがたけ)に至る山道です。ここから近江の穴太(あのう)へは古路越(ふるみちごえ)、坂本へは今路越(いまみちごえ)といいました。
 雲母坂は別名勅使坂(ちょくしざか)とも呼ばれていましたが、それは朝廷からの使者がこのルートを通ったからです。また、雲母坂というのは、この辺りに雲母(うんも)をふくんだ土砂があるからとも、京から眺めると雲がわくように見えるからともいいます。比叡山の僧兵たちが神輿を担ぎ、強訴に及んだ道でもあり、京から比叡山への最短路でした。
 修学院近くの名物雲母漬を商う老舗のたたずまいには、往時の面影が偲ばれます。
雲母坂(一乗寺付近)
 


   
 「南北に国際交流の場」
 

京都市国際交流会館

 京都大学や研究施設、美術館等の文化施設などが多い左京区には、海外からの留学生や研究者、文化人などの姿が大勢見られます。それは国際交流の場になる施設が南北に2ヵ所あるからでもあります。
 蹴上京都市国際交流会館は、京都が町ぐるみで世界中の都市や国々と仲良くするための交流の場として、1989年に建設されました。ここでは京都市国際交流協会が京都における国際交流のインフォメーションセンターとして、役に立つ情報の収集・提供を行うほか、国際交流を進めるための事業やイベントの実施、ボランティア制度の運営、各交流団体との連携をはかるなどさまざまな取り組みが行われています。
 また、宝ヶ池にある国立京都国際会館では、東洋一ともいわれる大会議室をはじめ7つの会議室が、学術会議などのさまざまな国際的な会議や大会に用いられています。
 「霊峰比叡を仰ぐのどかな山里―八瀬(やせ)―」
 

実りの秋、八瀬の里

 高野(たかの)川の清流に沿って、ひなびた家並みを見せているのが、八瀬の集落です。比叡山の山麓でもあり、川に沿って集落の中央を若狭街道が走っています。集落の名は、高野川が急流となり多くの瀬を作った場所だからといわれています。しかし、壬申(じんしん)の乱で背中に流れ矢を受けて傷を負った大海人(おおあまの)皇子(後の天武(てんむ)天皇)が逃げる途中、この地の村人に手当を受けたところから「矢背」といったという伝説も残されています。
 中世には八瀬の村人は、八瀬童子と称して朝廷の駕輿丁(かよちょう)をつとめ、課役(かやく)免除の特権を得ていました。それは南北朝時代に後醍醐(ごだいご)天皇を護衛したということから、免租になったと伝えられています。こうしたところから、いまなお八瀬は御所との深いつながりを保ち、赦免地踊(しゃめんちおどり)や小原女(おはらめ)、八瀬童子と独特のしきたりや優雅な風情を人々や家並みの表情にたたえているように感じられます。
 「暮らしに息づく伝統衣装――大原女(おはらめ)
   平安時代にはすでに和歌にも詠まれているように、「炭竈(すみがま)の里」として大原は薪炭(しんたん)の産地でした。この薪炭を頭に乗せて、京の都へ行商したのが大原女と呼ばれることになったといいます。その独特の衣装は、時代とともに変わってきましたが、寂光院に隠れ棲んだ建礼門院(けんれいもんいん)に仕えた阿波内侍(あわのないし)らの女官が、柴刈りに行くときの装いを元にしていると伝えられています。
 衣装には由緒ある所へ出入りする時の正装と、一般に行商するときの略装があるといいます。略装の時は紺の着物に細帯を締め、二巾半(ふたはばはん)の前掛けをして坊主からげでたすき掛け、白い手ぬぐいは吹き流しにかけます。昔は約60キロの柴を頭に乗せて売りに行ったといいます。現在、電気やガスの普及でこうした柴を頭に乗せた行商は無くなりましたが、大原女の姿は大原名産の紫葉漬(しばづけ)のお店などで見られます。
 火の祭り・水の祭り
 

《洛北の夜空を焦がす炎の祭典》

鞍馬の火祭り

  10月22日夜、山里の鞍馬(くらま)には詰めかけた観客と里の人々の熱気が町中を渦巻いています。夕刻の「神事にまいらっしゃれ」の声を合図にかがり火がともされ、8時頃になると仁王門の石段に大松明がひしめき集まります。「サイレイ、サイリョウ」のかけ声が祭装束の男たちから発せられ、炎の海と化し、祭はクライマックスへ。この鞍馬の火祭り鞍馬寺の山内にある由岐(ゆき)神社祭礼で、御所からの祭神を迎える時にかがり火を焚いたことに始まるといわれています。

広河原の松上げ

 8月15日に花脊八桝(はなせやます)、23日には久多、24日には広河原(写真、勇壮なラストシーン)で松上げという幻想的な火の祭りが行われます。大松明に向かって火のついた小さな松明が投げ上げられ、幾筋もの火の軌道が闇に描かれます。この松上げは、丹波から若狭の一部を含む広い地域に伝えられています。盆行事の送り火とも、愛宕山(あたごさん)信仰の行事ともいわれています。

 

 

 

《厳かな水への祈りと願い》

京菓子資料館(館内展示)
みたらし祭

 7月7日貴船神社では、水神に水の恩恵を感謝して水祭が行われ、舞楽や式包丁(しきぼうちょう)が奉納されます。貴船神社は平安京の水源である鴨川源流を守る神が祀られ、山中には雨ごいの滝もあるといいます。奥宮境内には伝説の船形石、社殿下には水神の龍を封じ込めた穴があると伝えられます。まさに木生根と書かれたように、貴船の地はいつでも水が滴るような、みずみずしい風景に包まれています。この地域は林野庁から「水源の森百選」の一つに認定されています。
 土用の丑(うし)の日には、下鴨神社境内の御手洗池に足をつけて厄を祓う行事(みたらし祭)があります。池の冷たい清水に足を浸しながら、御手洗社にろうそくを献納し祈願すると、無病息災がかなえられるといいます。一般に足つけ神事ともいわれ、夏らしく涼しげな水と火の祭りで、納涼をかねた人々で賑わいます。